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社員ブログ

  • あんまり楽しそうじゃないね

    こんにちは。法人ソリューション部のムネです。

    つい先日電車に乗っていると、使い古したノートを開く男性と席が隣になりました。

    のぞき見るのはよくないよなと思いつつ、ついノートの方に目を向けると、どうやら日本語を勉強している外国の方らしき模様。日本語の日常会話がつらつらと書かれていて、反対のページには中国語らしき漢字が並んでいます。

    ちょっとした隙間時間にも単語帳を開いていた昔を思い出しつつ、気になってちらちらとノートの中身に視線を向けていると、目に入ってきたのは、

    「あまり楽しそうじゃないね」

    という言葉。

    うーん。グサッと来る。

    言われたくない言葉ランキングがあればトップ5に入る言葉です。憐れまれている感じがして、ギュッと苦しい気持ちになる。「君さ、なんだか最近、あまり楽しそうじゃないね」なんて言われたら、身の振り方とか人生とかを真剣に考えなおさなきゃいけない気分になる気がします。

    と、たまたま目に入った「練習帳」の言葉にグサグサと心を痛めていたのですが、よくよく考えると、別にこの言葉はしゃべっている相手に向けられたものではないような気がしてきます。

    たとえば、
    「新しくできた遊園地、あまり楽しそうじゃないね」
    と聞いたら、ディスる対象を見つけた二人の会話っぽくて、そんなにネガではない。少なくとも、そんなにグサッとくる言葉ではない。

    なんだか言葉の解釈がネガティブになっているような気がして、ちょっと落ち込んだ、というお話です。短い言葉も一筋縄ではいかないですね。

  • 出たよ博識作家

    久々に小説を読み始めました。最近、ハヤカワ文庫から出た『異常(アノマリー)』。まだ100ページも読んでいないので評価の付けようもないですが、群像劇っぽい雰囲気でテンションが上がります。

    群像劇っていいんですよ……。まったく異なる人生を生きている複数の人たちが、とある偶然の一瞬に集まる感じ。今回はどうやら「同じ飛行機に乗り込んだ」複数の人間が描かれているっぽいですが、これがどんなストーリーに繋がっていくのかはまったく見当がつきません。気になる。

    作者の肩書を見たら数学者・言語学者・小説家……(その他いろいろ)となっていて、「出たよ博識作家」と思ったりしました。こういういかにも才気にあふれた作家にあこがれちゃうのは昔からなんですが、そろそろ恥ずかしいような気分にもなってきます。

  • 納骨の違い

    こんにちは。法人ソリューション部のムネです。

    先日、親族の納骨式に行ってきました。お墓は関西にあるため、仕事休みの土日に弾丸で向かいます。

    納骨式なんて人生で何度も経験するイベントではないので、興味本位で業者に色々と話を聞いてみると、関東と関西で納骨の方法に違いがあると教えてくれます。

    関東では骨壺をそのままお墓下のスペースに埋めるのが一般的だが、関西では骨壺から一度布袋に骨を移し替え、その袋を埋めるとのこと。なので、関東はお墓が骨壺でいっぱいになってしまうこともあるが、関西は「土に還る」ため、スペースが基本的には確保されるしくみになっている。

    理由までは調べていないのですが、うーん。興味深い。そもそも納骨の仕方なんて、人生で一度も考えたことがなかったので、いいきっかけになったのかなと思います。

    ただまあ、人が亡くなるというのは寂しいですね。

  • 休みなごり

    こんにちは。ムネです。

    せっかくのGW、ふらっと羽を広げてちょっと遠くまで旅行しようと思っていたのですが、結局都内を出ることなく終わってしまいました。電車に揺られながらうとうとしたり、海の見える公園でぼんやり本を読んだりすればよかったなあ、なんて。

    そんなことはどうでもいいですが。

    まあとにかく、スマホやらPCやらから離れたいわけです。意識しないと、どんどん「液晶画面に表示されるもの」しか情報として認められなくなるような怖さがあって、最近はとにかくぼーっと空を見たりするのが大切だなあ、という気分。大切ってのは言い過ぎな気がしてきたので言い換えると、空を見たりすると気持ちいいなあ、と。

    まあ、そんなこともどうでもいいですが。

  • 春は言い訳の季節

    こんにちは。法人ソリューション部のムネです。

    「あれ? ポケットのどこにイヤホン入れたっけ……?」となったときに使えるかっこいい台詞を思いついたので共有します。

    「僕のポケットはいろんなところに繋がっているから」

    春ですね。鍵とかがパッと出てこないときにも使えます。

  • 結局は自覚の問題なのだ

    こんにちは。ムネです。

    花粉がつらいです。
    弊社の中にも花粉症の人がそれなりにいるらしく、オフィスにいると結構な頻度でくしゃみが聞こえてきます。

    この前エンジニアのUさんが明らかに鼻をむずむずさせていたので、「花粉症ですか?」と聞いてみたら、「わからない」と言われました。ただ、「花粉症だと自覚したら花粉症になる気がする」と言っていた気がします。

    結局は自覚の問題なのだ、ということでしょうか。苦手だと思っていることも「苦手」と口に出したら苦手になってしまう、みたいな。

    よくわからないですが、とりあえずは「俺できます!!」みたいにニコニコしていたら、きっといいことがあるのだと思います。

  • おセンチな気分

    最近、「小中学生くらいの頃によく聞いていた曲を聴いてセンチメンタルになる」」ことにはまっています。

    たとえばミスチルのHANABIとか、AKB48の曲。オレンジレンジや湘南乃風はカラオケに行くと誰かしらが入れたりするのでまだ自分の中で更新されているのですが、ファンモンとか嵐とかを聞くと懐かしくてなんともいえない気持ちになります。

    スナックとかに行くと、60代くらいの男性が昔の懐かしい曲を歌っている機会を目にしますが、泣かずに歌えているのがすごいよなあ、と思えたりもします。もし自分がほろ酔いでGReeeeNの曲とか歌うことになったら、無邪気な子供のころを思い出して泣いてしまうだろうな、と。

  • 恵比寿映像祭

    こんにちは。ムネです。

    先の建国記念の日に、東京都写真美術館で開催されている「恵比寿映像祭」に行ってきました。

    https://www.yebizo.com/

    作家自身の母親を映したドキュメンタリー映像(小田香『働く手』)から、数年前に亡くなったパフォーマーであるイトー・ターリのアーカイブなど、「記録=docs」をテーマに色々な展示が並んでいます。モザイク状のベニヤ板に水中の光を投射する作品(角田俊也「スクリーニング」)は、映像というものがあくまで「光源」とそれを反射する「スクリーン」のセットで成立するものなんだということを見せつけてくるようで面白いです。

    「映像祭」というものの性質上、やっぱり「映像というメディアとはいったい何なのか/何ができるのか」を問う作品が多いような気がしました。あんまり僕自身は実験的な作風の映像をみることがあまりないので、そんなに深いことは考えずにただ楽しんだだけなのですが。

    ただまあ、改めて思ったことは、こういう実験的な作品はスマホでは決して見ない/見られないだろうな、ということ。よくも悪くも退屈で、整理されていない情報が禍々しく表出しているような映像は、しっかりと美術館という場に身を運んで、「それを見るしかすることがない」くらいの状況に自分を追い込まないと、なかなか見ることができません。そうやって集中して目を凝らしてみると、思いもかけぬ細部に惹かれたり、ふと気の抜けた「くだらない」画面が気になって笑えてきたりもする。

    たまには美術館とかに行くと楽しいよ、という話でした。帰り道に写真を撮ったりするのも一興。

  • 改行力を鍛える

    最近、京極夏彦さんの作品をちまちまと読んでいます。
    京極さんといえば、まず印象的なのが、文庫本の分厚さ。1,000頁を優に超える作品群は圧巻の存在感で、京極エリアが本棚に並んでいると、遠くから見ても何か異質なものがそこにあるような気がしてしまいます。

    ただ、その分厚さは読者をビビらせる諸刃の剣。もう10年以上前からその作家名に関心を持っていたにもかかわらず、なかなか手を出せなかったのは、やはりあの文庫本の威圧感のせいと言うほかありません。

    ただ、重い腰を上げて実際に読んでみると、ものすごく読みやすい。長い小説ですが、一気に三日くらいで読み終えてしまいます。

    どうして僕はこんなにもすらすらとこの本を読めてしまったのか。

    ちょっと考えてみると、ひとつ、これじゃないかという結論が出てきます。

    それはーー

    改行の巧みさ(実際にやってみて、こんなにも改行ってムズイのかと戦慄しました)!!

    (ちょっと引用したいんですが手元にないのであとで差し込みます。。。)

    行が変わるたびに、呪いやらで混沌とした世界が一瞬静かになるような感覚。静まり返った世界の中で、ひとり、語り手の心臓の音だけが響くような感じ。

    『魍魎の匣』が1,000頁を超えるのも、この「改行力」のせいかもなあ、なんて思ったり。
    まあ、ほんとに一気に読めるので読んでいない人は尻込みせずに挑戦してほしいです。

  • 20世紀少年の印象が違う

    こんにちは。法人ソリューション部のムネです。

    年末はわりに時間がたくさんあったので、いきおいでシリーズものを一気見したりしました。

    そこで久々に鑑賞したのが『20世紀少年』。たぶん十年ぶりくらいの再見です。

    最初に見たときは小学生とか。CMとかで流れてくる「ケーンジくん。遊びましょ」なんてセリフを、名前だけ変えて実際の友達に向けて言ったりもしていたことを思い出します。「世界征服」とかそういう大きな言葉にテンションが上がるような時期で、黒幕である「ともだち」の正体をめぐって色々と考えたものです。

    ただしばらくぶりに見てみると、印象がだいぶ違う。まあ黒幕の正体を知っているからというのもあるのだと思うんですが、それよりも同窓会の描写とかに共感してしまう。風変りな子の話で盛り上がったり、影の薄い同級生を覚えていなかったり。ときには「〇〇をしていた××くん」の組み合わせで認識がずれてしまうことがあったりもする。

    実際、シリーズを3本通して見てみても、「あのことを覚えているかどうか」をめぐる対立が物語の中心を走っているような気がします。トラウマ的な出来事って、たしかに被害者側だけが覚えていて、加害者側は一切の記憶に残っていなかったりする。そういうことって確かにあるよな、と思ったりもします。

    そういう誰しもが覚える感覚に紐づいたテーマが、「よげんの書」とか「宗教団体」とか「世界征服」とかのキャッチーなテーマと絡みあってこんなにも面白い世界が作られている。

    まあ、そんなことにちょっと感動した、という話です。

    僕が小学校のころ言った「〇〇くん。遊びましょ」という声が、誰かのトラウマになっていなかったらいいなあ、なんて思ったり。