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積読

2025-02-12
ゆとり日記

こんにちは、ババです。

この前何かの拍子にふと思ったんですが、最近「積読」って一種の誇りの対象のようになっているなあと。
かくいう私も気になった書籍は古本新刊問わずに割とすぐに買ってしまいますし、読んでいないでインテリアになってるいわゆる「積読」本も家にまあまああります。

でも、よくよく考えてみると「家に本はあるけど読んでない」ことをわざわざ言う状況ってちょっと変だなあと思っています。一部の例外を除いて、本は読まれるために生まれてきたのであって、積まれるために生まれてきたのではないでしょう。そして、読んでない人は本を読むよりも優先する何かがあって(もしくは何もなくても本は読まずに)、日々を過ごしているのでしょう。

本も全部読むつもりで買うものと、本に書いてある一部の欲しい情報だけを求めて買うものがあります。
後者の本は主に知識を得るためだけのいわゆる辞書的な使い方をします。こういう本は私は社会人5年目くらいからどんどん増えていきました。際限がない。
一方、前者は読むつもりで買ってるので基本はやはり読まれるべきで、積んでいることはいいことではない気がします。

ほかの業界でも「積みゲー」「積みプラモ」「積み映画」など似たようなものはやはりあるようで、ゲームもプラモもやらない私から見ればあまり理解ができません。
「いやいや、やれよ、何のために買ったの?」と思ってしまいます。単価の大小はあれど、「積読」も他の趣味を楽しまれている方から見れば同じように見えるのでしょう。

「積読」は一種のコレクターズアイテムないしインテリアのツールと化しており、人の所有欲を満たすものになっているのでしょう。
しかも「本」をたくさん持ってるってなんか頭いい感じしますよね? 知識人的なね。
私も本を買うときは基本電子では買いません。それはじぶんの「本を持つ」という所有欲を満たすためです。(「デザインのひきだし」みたいに紙であることに価値があるものもありますね。)
で、家に集まったたくさんの本たちを見てにやにやします。たくさんあるなあと。
でもこれも、読み終わった本をみて「たくさん読んだなア」とにやにやするべきなんでしょう。
まあでも「自分の趣味しかない自分のためにつくった自分の本棚」に価値を感じているのかもしれません。自分大好き。まあ趣味なんてそんなもんです。自分のためにやってるんだからね。しかも本って洋服とかゲームとかにくらべて平均単価多分安いんですよね。若いころブックオフにどれだけ助けられたことか。

ただ、本をある程度集めたら収納に困ります。ここで多くの人はいつか本を手放します。私も今の家に引っ越すとき整理をしました。
ライフステージが変わることもあるでしょうし、単純に部屋が狭くなるのに耐えられないかもしれません。本よりも優先して集め、飾りたいものができるのかもしれません。
そうなると引っ越しとか貸倉庫とか、本のための経済的な負担を迫られます。多くの人(もしくは同居しているパートナーなど)にはその「所有し続けること」に対して金銭的な負担がかかることや、所有物が生活の中心になることは受け入れられません。
東京の家賃が上がり続ける中、本のために一部屋多い部屋に引っ越したりすることや、鴻巣氏のように、ダイニング・リビングを捨てて自宅を図書館化することなんてほとんどの人には不可能なのです。私は本を床に直置きすることも耐えられません。

話はそれますが、私は「本を読む」という行為自体とても労力のいることだと思っています。とても疲れます。疲れてるときに読むとすぐ眠くなります。
そう考えると「本を所有すること」もしくは「本そのもの」を好きな人がいても「本を読む」ことを好んでいる人は意外と世の中には少ないのかもしれません。
それか、私が思ってるよりほかの人は読書に疲れを感じないのかもしれません。
ちなみに私は本を読む行為それ自体はそんなに好きではありません。疲れるから。
それでも本屋に行くと本を買ってしまいます。

適当に思い付きで書き連ねましたが、積読の本がこんなにある~、というのは私にとってはやはり世間に喧伝すべき類のものではなく、「読まなきゃあなあ…」と戒めとして受け取るべきものであった方がいまはいいと思っています。本に対するいろんな考え方があって、またたくさんの人が本を手に取るようになるといいですね。