小説抄 其の7「谷崎潤一郎『痴人の愛』」
男は初という男勝りの女性に求婚するが、初は既婚であり、代わりに妹の千代を薦める。男は姉妹なら似たような性格だろうと嫁にもらうが、千代は貞淑で従順な女性であった。余人なら手放しで喜ぶところだが、男の嗜好には合わず飽き足らなくなってしまう。
そんな折、男は千代の妹のせい子と出会う。せい子は初に似たタイプであり、男は入れ込んでいく。男とは谷崎潤一郎である。せい子は『痴人の愛』に出てくるナオミのモデルと言われている。同作には主人公の譲治がナオミの足を好んで舐めるシーンが出てくるが、谷崎本人にそうした嗜好があったかどうかまでは知らない。
とまれ、千代の話。貞淑であることは離婚の理由にはなるまい。これは谷崎も考えただろう。そこで谷崎は一計を案じ、千代の境遇に同情している親友の佐藤春夫に「千代をもらってくれないか」と持ちかける。佐藤としては「そんなバカな」だが、だんだんその気になる。千代も同じ。
ところが谷崎はそうは言ったものの、恋をして綺麗になっていく千代を見て手放すのが惜しくなり、「この話はなし」と前言を翻す。怒った佐藤は谷崎と絶交し(小田原事件)、千代を想う詩を次々と発表する。言わば公開ラブレターだが、「秋刀魚の歌」はそんな中で生まれた。
それから10年後の昭和5年、谷崎は「千代を佐藤に譲る」という声明を発表する(細君譲渡事件)。当時は妻を物のように扱うと非難されたが、「いらないからやるよ」ということではなく、激しい嫉妬をした末に「そんなに好きならくれてやる」という面もあったらしい。興味のある方は『蓼食う虫』を読むべし。
ちなみに千代はその後、佐藤と結婚、終生静かに暮らし、谷崎は二度の離婚を経て松子と再婚、次女の松子ほか四姉妹をモデルに『細雪』を書く。(黒)
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