小説抄 其の11「新田次郎『聖職の碑』」
戦時中、新田次郎は中央気象台(現気象庁)の満州国観象台に勤務していたが、終戦直前に不可侵条約を破って侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、中国共産党軍にて一年間、抑留生活を送る。妻の藤原ていはソ連侵攻前に二人の息子を連れ、38度線を歩いて越えて帰国。昭和24年、ていが書いた満州からの引き上げ記録『流れる星は生きている』はベストセラーになる。
新田次郎氏は複雑だった。妻の原稿料で家計は潤ったが、自身も作家志望だったから羨望もあったと思う。しかし、これが転機となる。2年後の昭和26年、「サンデー毎日創刊30年記念100万円懸賞小説」に「強力伝」で応募し、現代小説1席を受賞する。なお、同2席に南条範夫、歴史小説2席に永井路子がいた。
『聖職の碑』は大正2年、長野県の中箕輪高等小学校(今の中学校)の生徒が学校行事として木曽駒ケ岳に登り、遭難して11名が死亡した事故を基にしている。読んでない人のために内容には触れないが、「人は雨に打たれただけで死ぬんだ」とか、当時は台風の基準値が高く、予報では熱帯低気圧だったんだといった事実に「へえ」と思ったこと、それから自らも長野出身である作者が「長野県民は議論好き」と書いていたことをよく覚えている。
新田次郎氏とは会ったことはないが、次男の藤原正彦さんとは公募ガイドの取材で二度会った。新田次郎からすると妻のていさんは先輩作家で、「何、この下手な文章」みたいに酷評ばかりで、しまいには夫婦ゲンカになってしまう。それで高校生だった藤原正彦さんが原稿を読んで感想を言う担当になったらしい。文筆家になるには最高の環境だ。
ちなみに、数学者だった藤原さんに執筆を勧めたのは新田次郎氏だ。藤原さんは研究のために渡ったアメリカから家族に手紙を送っていたそうだが、新田次郎氏によると、それが全部面白かったと。「おまえ、才能があるかもしれないから、何か書いてみろ」と言い、それで藤原正彦さんが書いたのが、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞する『若き数学者のアメリカ』だ。
新田次郎の小説は十代の頃によく読んだのだが、愛読者でもあるので、藤原正彦さんの取材のときは当然、新田次郎氏の話になる。藤原正彦さんによると、新田次郎氏は、どんなに誘っても「連れ去られるから」と言って終生共産圏には行かず、「今はそんなことない」という説得にも頑として応じなかったそうだ。抑留生活を陳腐な言葉で言うのは申し訳ないが、そこはやはり地獄だったようだ。
(黒田)