小説抄 其の8「芥川龍之介『魔術』」
純文学/エンターテインメント小説という分類があるが、直木賞作家の白石一文さんは、「小説が100冊あったとして、これを純文学かエンタメ小説かに分けろと言われたら、全部分けられる」と言っていた。
また、芥川賞作家の平野啓一郎さんは、「純文学とエンタメ小説に分けられているのは日本だけと言う人がいるが、ミステリーがノーベル文学賞を受賞することがないように厳然と区別がある」と言っている。
日本の近代文学は、西洋から輸入したフランス文学、ロシア文学の模倣から始まった。模倣ではあるが一応は文学。一方、大衆の読み物はというと、落語や講談を速記して印刷した書き講談がそのルーツの一つ。両者は同じ読み物とは思えないぐらいかけ離れた存在で、全くの別物だった。
しかし、関東大震災を機に大衆小説が人気となると、人気に乗じて粗製乱造された大衆小説と一緒にしないでくれとばかり、「純」が強調されるようになる。この時点での純文学は反大衆小説という共通項はあるものの、個々の作風は十人十色だった。
戦後、純文学はどんどん先細っていく。昭和36年に伊藤整は「『純』文学は存在し得るか」という評論を書いているが、ということは絶滅危惧種だったのだろう。そこで出版社は、食い詰めた純文学作家にエンタメ小説を書かせる。いわゆる中間小説で、これが100万部という市場にまで発展する。そうなると、もはや純文学と大衆小説は対立概念ではなくなるのだが、ここで問題になるのは、そもそも純文学と大衆小説は対立概念だったんだっけということ。
(注)以下、ネタバレを含みます。
純文学の賞である芥川賞にその名を残す芥川龍之介に『魔術』という短編がある。
ある夜、主人公がインド人を訪ね、魔術を教えてほしいと乞う。インド人は「欲のある人間にはできません。あなたはそれを捨てることができますか」と問う。主人公ができると言うと、習うには時間がかかるので今日はここに泊まりなさいと言い、「御婆サン、御婆サン、御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ支度ヲシテ置イテオクレ」と言う。
主人公は魔術を習い、家に帰ると早速、友人に見せて自慢などするが、あるとき、トランプで賭けをし、大勝ちする。負けたある男は気が収まらず、全財産を賭けるから、君も有り金を賭けろと狂ったように挑んでくる。主人公は受けて立つが、勝負が決するカードを引くその刹那、欲が出て、魔術を使ってしまう。相手のカードは「九」、主人公は「王様(キング)」。主人公の勝ちだ。すると、そのキングの絵がひょいとカードから抜け出て、「御婆サン、御婆サン、御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ支度ハシナクテモ好イヨ」。主人公はまだ魔術を習う前だったのだ。
このどんでん返しは見事というしかなく、伏線の張り方もミスリードのさせ方も、のちの世のミステリーやショート・ショートの教科書にしたいぐらい。純文学作家がこんなエンタメの技巧を駆使していたなんて。こうなると、純文学/エンタメ小説の境目がわからなくなる。
よくよく考えれば、夏目漱石の『坊っちゃん』も、太宰治の『御伽草子』もエンタメそのもの。端から境界などなかったかなとも思ってしまう。ただ、そうは言っても明らかに純文学ではない、もっと言うと文学では絶対にない小説もある。だから、小説を二つに分けるのなら、純文学/エンタメ小説ではなく、文学/非文学だろうと思う。ちなみに、文学と言える賞は文学賞のタイトルを冠し、そうでない賞は小説賞というタイトルになっている。
(黒田)