小説抄 其の3「太宰治『晩年』」
編集部の黒田です。
最近、鎌倉を歩いていたら、ガレージセールのような店があり、そこに太宰治の初版本(復刻版)の『晩年』があった。定価はなんと5000円! 実は私、これと同じ近代文学の復刻シリーズを100冊ほど持っていて、「全部売ったら50万円!」と驚いた。
でも、売ることはできない。親父の形見だから。
「トカトントン」という喫茶店を見つけ、父親と一緒に入ったのはまだ高校生のときだった。「トカトントン」は太宰の短編で、案の定、店内の棚は太宰の著書で埋め尽くされていた。
「あ、『晩年』だ」と言って、新潮文庫を開き、たまには父親の鼻をあかしてやろうと、「太宰は川端康成に芥川賞受賞を請願する手紙を書いたんだよね」と言ったところ、父は「そういうの、釈迦に説法と言うんだよ」と。
無知をさらすようだが、このとき、私は「釈迦に説法」という諺を知らなかった。
芥川賞絡みの件を時系列で記すと、第1回芥川賞のときに『逆行』と『道化の華』が候補にあがり、『逆行』が最終候補に残ったが、受賞作は石川達三の『蒼茫』だった。
太宰は、川端康成の選評「私見によれば作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった」に激怒し、「川端康成へ」と題し、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い、舞踏を見るのが、そんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った」という一文を著している。
その後、第3回のときは選考委員の佐藤春夫から候補にあがった旨、連絡がある。それで太宰は佐藤春夫と川端康成に受賞を請願する手紙を書いている。
「私に希望を与えて下さい。老婆、愚妻を、一度限り喜ばせて下さい。私に名誉を与えて下さい。(中略)『晩年』一冊のみは、恥ずかしからぬものと存じます。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい」(川端康成への手紙)
ちなみに、この手紙を見ると『晩年』が候補作になったようなのだが、短編集が芥川賞の候補作というのはおかしい気がする。「晩年」という短編はないので、候補作にあがったのは『晩年』に収録された短編のどれかか、あるいは戦前は短編集も対象だったのか。
川端康成は選評の中で、「今回に適当な候補者がなければ、太宰氏の異才などは授賞してよいと思う」と書いている。順当に行けば受賞に至ったのかもしれないが、選考は川端康成のほか、菊池寛、佐藤春夫など五氏の合議で行われ、かつ、第3回から「過去に候補作となった小説家は選考対象から外す」という規定が設けられたので候補にすらならなかった。
『晩年』は太宰最初の短編集(単行本)であり、晩年に書いた作品ではない。では、なぜ晩年としたのか。太宰は著書「『晩年』に就いて」の中で、「これが、私の唯一の遺著になるだろうと思ったので題名を『晩年』にした」と書いている。本人は二十代の今を晩年と思っていたのだ。
この事件が起きたのが昭和11年。軍国主義が色濃くなっていった時期だが、この時代、自分も早晩、国のために散る、つまり、晩年と思っていた青年も少なくなかっただろう。志願兵だった私の父も然りで、一時期は太宰の信者だったらしい。
つまり、釈迦に説法とは、本でしか太宰を知らない私に対する皮肉だったというわけだ。
(了)