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中山道を行く 第12週

編集部の黒田です。
今回は、「中山道を行く」第12週をおおくりします。
第12週は早朝に奈良井宿の民宿を発ち、鳥居峠を越え、藪原宿、宮ノ越宿、福島宿、上松宿まで歩いた。

この日は早朝に宿を出て、体力のあるうちにと鳥居峠を越える。
あとは下りで、午後、巴が淵に出た。
巴という名からわかるように、ここでは三つの川が合流している。
また、木曽義仲の愛妾、巴御前が水浴びをした場所としても知られている。

木曽義仲は埼玉県嵐山町にある大蔵館にて、源義賢の次男として生まれた。
義賢は源為義の次男で、北関東を押さえていたが、南関東を押さえていた長男の義朝(頼朝のお父さん)と対立し、義朝の庶長子の義平に急襲され、大蔵合戦で殺されている。

このとき、義平は15歳だったが、母親の身分が低かったことから、長男なのに世継ぎという扱いではなく、後継者と目されていたのは三男の頼朝だった
義平が功を焦るようにして叔父さんを殺したのには、父親に認められたいという承認欲求があったからではないか。

閑話休題。
義平が大蔵館を襲ったとき、二歳の次男は命を救われ、乳母の夫、中原兼遠のいる木曽に逃れた。
この駒王丸という子がのちに旗揚げし、都から平家を一掃する木曽義仲。
この義仲の愛妾が、戦さでは鎧兜を着て戦った巴御前だ。
(写真は「義仲館」の入り口前だが、行ったときは休館でした)

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巴が淵の先には、以仁王の令旨によって義仲が旗揚げをした旗挙八幡宮がある。
さらに中山道を進むと、義仲の菩提寺、徳音寺があり、
山裾に源義仲、中原兼遠の三人の子(巴御前、樋口兼光、今井兼平)の墓があった。
兼光、兼平兄弟は木曽四天王のうちの二人だ。

義仲にとって三兄弟は親友でもあり、戦場ではともに戦った戦友でもある。
特に今井兼平とは「死ぬときは一緒」と約束しており、実際、粟津の戦いでは義仲は逃げようと思えば逃げられたが、
別々に死にたくないとあと戻りし、同時に最期を迎えている。

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義仲が育った宮ノ越宿を過ぎると、関所跡で有名な木曽福島を通る(写真は関所門)。
近くには「ようこそ木曽路へ」の看板があり、上州路や信濃路のときは何も感じなかったが、
このときは「木曽路」と聞いて、武田鉄也ではないが、「思えば遠くへ来たもんだ」と思ったのだった。