Logo
employee blog

社員ブログ

小説抄 其の50(最終回)「池波正太郎『日曜日の万年筆』」

2011-06-28

「小説抄」を始める前に何本か試作を書いてみたのだが、あらすじに個人的な感想は挟めないし、推薦できない本を取り上げるのも変なので酷評するわけにもいかず、書き上がった原稿は「不朽の名作」だとか「私小説の金字塔」なんていう言葉が並ぶ、文庫本の裏表紙の劣化版かといったものだった。こんなもん読んでおもしろい? っていうか、書いているこっちがつまらないよ、なんて本人が思うものを人様に読ませちゃいかんだろうと思い、この方向で書くのはやめることにした。


元はと言えば作品添削講座のPRが目的で、しかし、毎回講座の案内では誰も読まないだろうから、受講する人が興味を持ってくれそうなコーナーを企画したわけだが、おもしろくというのがこれまた難しい。セオリーとしては「私」を書くのが一番だと思うが、個人のブログではないので個人的すぎることは書きにくいし、しかも、この「私」は不特定多数の鑑賞に堪える「普遍的な私」でなければならないから、そんな芸当、意識してできるかって話。結局、自分が思うように書くしかないわけだ。


『日曜日の万年筆』にこうある。「書く材料がないわけでもない。けれども、それがすべて、そのまま素直に、率直に書けるかというと、そうではないのだ。小説の中では、いくらでも裸の自分を見せることができるのに、随想となると、(どのように、裸の顔を見せたらよいのか……?)そこがわからない。自分の素顔を見せて、それが果して他人が読むにたえるものとなり得るだろうかと、おもうからだ」)。さすがにプロの作家ともなると、暴走しがちな書く自分を、読む自分が抑制している。


池波氏は「裸の自分を見せるのが恥ずかしいとか嫌だとかいうのではない」とも書いているが、裸の自分を書かざるを得ないときもあり、そんなときはやはり恥ずかしい。しかし、そうも言っていられないから、「誰も読んでないさ」と自分を騙し、壁に向かうような感覚で書く。すると自由に書けるが、そうして気まますぎることを書くと、もう一人の自分がたちまちブレーキをかけてくる。結果、「ごみ箱」行きになった原稿が数百。人様にお見せできるのは、その中のほんの一部に過ぎない。(黒)