小説抄 其の47「山口昌男『文化と両義性』」
今日(5.14)は土曜日だが、平日に時間がとれなかったので自宅でこの原稿を書いている。しかも、明日中に読まなければならない小説が1冊あって、やれやれだ。ところで、少し前に石崎洋司先生と話していて「小説ってなんすか」と聞いてしまい、そんな漠然とした質問、答えられるか! と自分に突っ込んでしまったが、先生は「読者をどこかに連れていくもの」と即答された。なるほど、小説の中の空間はひとつの異空間であって、私たちはひとときその世界にトリップする。納得。
人間の子は無能無力の状態で生まれてくるが、実は大人も同じ。文化的装置がなければ生きられない。生きられないから社会という巨大な保育器を作ったわけだが、外敵に襲われるでもなく、食料もあるのに、いやそれゆえに、安定した空間にいると鬱屈するらしく、私たちはときどき日常を離れ、自然の中で暮らしたいなんて思うが、そもそも自然の中では生きられないから社会という孤島を作ったのだから、自然の中に居続けることはできない。少なくとも文化的装置なしでは。
でも、日常を脱出することによって心を浄化させたいから、誰だって山に行きたい、海に行きたい、旅行に行きたいと思ってしまう。そうした生産と消費の循環は、昔は年に数回の祝祭でバランスがとれたが、生産過剰な現代はそれでは追いつかない。かといって年中、海だ山だ海外だと行っているわけにはいかないから、映画を観たり、小説を読んだりして、心だけ非日常に行ってまた戻ってくる。物語構造が基本的には行きて帰りし物語になっているのはそういうことだろう。
山口昌男はそうした内と外、日常と非日常、生と死、彼岸と此岸などの境界を「周縁」と言った。これは氏の造語だったはずだが、今ワープロで出てきた。ま、いっか。要するに小説を読むということは周縁に行くということだな。つまり、仕事(日常)で疲れたら小説(非日常)を読めばいいということになるが、でも、目の前にあるこの1冊は仕事なんですけどぉ~。だから、生産と消費のバランスが崩れた私は、仕事を放り出して飲みに行こうとしていたりする。ま、いっか。(黒)
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