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社員ブログ

小説抄 其の46「森絵都『いつかパラソルの下で』」

2011-05-03

受験生活というのはアドレナリン出まくりなのかもしれない。おかげで多少の無理は平気だったが、終わったとたんに気が抜け、泥のように眠い日々が訪れた。これが噂の五月病かと思ったが、そんな生やさしいものではなく、ある日、布団に背中が張りついて起きられなくなってしまった。暇なので小説ばかり読んでいたが、夏になっても状況は同じ。相変わらずやる気のやの字も出ない。なんとかしたいとは思うが、思えば思うほどドツボに嵌まって戸っぴんしゃんな日々だった。


さすがに父も業を煮やし、なぜそんなにやる気がないのかと責めた。こっちが聞きたいくらいだと思って黙っていたが、そろそろ平手の一発でもと父を見ると、遠い目で私を見ていた。「小説が好きなら好きなだけ読め。飯は食わせてやる」。は? 何それ? それはさておき、30年後、父が亡くなり、それまで知らされなかったことがぼろぼろ出てきた。『いつかパラソルの下で』の主人公も父親の死後、父親が絶倫だったことを知るが、死んだあとはいろいろ出てくるらしい。


父の三回忌のとき、実家の兄が「親父は若い頃、芸者と駆け落ちしたそうだ」と言った。親父が? ウソでしょ。それで慌てて見合い結婚させられたらしいのだが、その被害者?でもある母が言った。「学者になるって言い出したこともあって」そんなの無理でしょ、貧乏所帯の長男だし。「だから反対したわよ」それに尋常小学校卒じゃん、無謀だよ。母によると最初は作家になると言ったようだ。しかし、祖父にそんなもんで食えるかと言われて仕方なく文学者と言い換えたらしい。


作家はともかく、芸者と駆け落ちしたというのには驚いたが、戦争中はアドレナリン大爆発、そのときに結核になって戦後はしばらく「死ぬ者」として隔離されていたそうだから、自暴自棄にもなっただろうし、バーンアウトして無気力にもなっただろう。と思ったとき、はたと気づいた。30年前に私を見ていたあの目。あれは私に自分の昔を見たのだ。似なきゃいいのに、変な血が今頃息子に出たよと。「好きなだけ読め」というのは、かつて自分が諦めた夢だったんだろうとも。(黒)