Logo
employee blog

社員ブログ

TK-プレス 其の45「シュルレアリスム」

2011-04-12

マギー審司が使っていたような模型の耳が無造作に置かれていたりすると、思わず「シュール」と言ってしまい、それを壁にくっつけて「壁に耳あり」なんて書いてしまいたくなる。これは荒唐無稽な冗談に過ぎないが、意識や理性が介在できない状態で普段は気づかない現実が出現すると、なんだか深遠な気分になったりする。これをシュルレアル(超現実)と呼び、そうした芸術運動をシュルレアリスムと言う。言わば文化的荒唐無稽……荒唐無稽文化財、なんつってね。


マルセル・デュシャンの「ローズ・セラヴィよ、なぜくしゃみをしないの」というオブジェは、鳥かごの中に大理石のキューブなどが入っており、なぜか意味あり気に温度計が差してある。もちろん、意味はない。ないけど、記号論で言う「近接の原理」によって近いものたちが連合し、あるように見える。「泉」という作品はただの便器、いわゆるレディ・メイド(既製品)だが、やはりどこか悪ふざけっぽい。買ってきた便器に「泉」というタイトルをつけて出品するって……。


マン・レイの『ミシンと雨傘』は「解剖台の上の、ミシンと雨傘の偶然の出会いのように美しい」というロートレアモンの詩から生まれたが、異質なものが並んでいると、どうしたってその関係を考えてしまう。シュルレアリストは、別々の人が主語や述語を考えて、あとで組み合わせるという言葉遊びもやり、有名なのが「甘美な/死骸は/新しい/ワインを/飲むだろう」だが、もちろん意味はない。しかし、私たちは関係を考えてしまうという呪縛から逃れることはできない。


高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』には、詩を読んで「この詩は表だけかい」と片面白紙の紙片を裏返す場面があるが、私たちの脳は答えが分からないと延々と探してしまうらしい。こうした効果はのちに広告に応用された。どこかの男が着衣のままハドソン河を泳いでおり、「なんだ?」と思った瞬間、画面に「PARCO」と出る。CMの内容と広告主はミシンと雨傘のように無関係なのに、私たちはいつまでも「PARCOって何だよ」と考えしまった。まんまと。(黒)