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社員ブログ

小説抄 其の41「宮本輝『星々の悲しみ』」

2011-02-22

あるとき、元メジャーリーガーの新庄剛選手がテレビに出てきて、「(プロの投手の)あんな速い球、なんで打てるのか分からない。でも、打てちゃうんです」と言っていたことがある。山ほどある野球の技術解説の本を読むと、実際には打てなくても打てるような気になるものだが、「勘です」と言われると、打ちたければ黙って練習しろってことかと思って途方に暮れるしかない。


宮本輝の『星々の悲しみ』の冒頭には、「その年、ぼくは百六十二篇の小説を読んだ」とある。「ぼく」は予備校生だが、図書館に寄ったとき、突然気持ちが萎え、受験勉強などどうでもよくなって、「きょう一日だけ、好きな本を読もう。勉強はあしたからだ」と思う。ところが、「にわかにロシアの長い長い小説を、最初から最後まで一字もとばさずに読了してみたくなって」しまい、その後、一重の切れ長の目をした女子大生らしき娘に向かって三百冊ぐらいはありそうなフランス文学とロシア文学の棚を指差し、「ことし中に、そこにある本を全部読むんですから」と言う。


このあと、物語は「星々の悲しみ」という絵を盗むという展開になるのだが、ここで問題となるのは冒頭部分に出てきた一重の切れ長の目をした女子大生らしき娘が最後まで出てこないこと。これは普通はありえない。迂闊にやれば「破綻している」と言われかねない作りだが、「これまで読みふけった百数十篇の小説が、語ろうとしてついに語れなかったところのものを、ぼくはあの瞬間に、かすかに垣間見たはずではなかったか」という最後の一文を読んだ瞬間、なぜかすとんと収まってしまう。


それがなぜかは分からないが、一見とりとめもなく出来事が並べられているように見えながら、全体としては完璧に結構ができていることは分かる。そういうのを世間では神業と言わなかったか。どんでん返しの連続のような小説なら誰でも真似ができる気がするが、こういうのは真似できない。頭でできることではない。それはハイパーリアリズムの絵なら頑張れば描ける気がするが、シュールレアリスムでは真似したところでもどきにしかならないと観念するのに似ている。(黒)