小説抄 其の40「重松清『ビタミンF』」
たまたま同年代だったとか、同窓、同郷だったりして、急激に親しくなれるときがある。それまでと何が変わったわけでもないのに、何か共通するものがあると、説明せずともなんだか分かり合えるような気になる。本の場合も同じで、いくらいい本だと言われても、共通する何かがあるという思い込みがなければ読む気にはなれない。戦前などは、たいがいの日本人が戦争と貧困を体験してきたから、それを書けば共感を得られたが、現代人の場合、そういうものはまずない。
あるとき、Bさんという方と話していて、「私が読んでもおもしろい小説ってありますか」と聞かれたことがある。「私が読んでも」というのは、小説というものを必要としない人という意味だろう。当時、Bさんは45歳、二児の父だったが、私もそんなことを思ったことがあった。学園ものを読む年でもないし、苦悩と挫折の青春は既にして遠い。それなら恋愛ものはどうかというと、惚れた腫れたの色恋はかなり縁遠くなっている。第一、それを問い詰めたい気持ちがない。
難解なのもかったるい、仕事を連想させるようなものもだめ、時代小説というほどの年齢でもない。推理小説は? 謎解きだけでは食指は動かないし、それにその手のものはさんざん読んだ。ならば、いっそポルノ小説は? 成人漫画を読む感じでストレス解消になる? ところが、そうはならない。小説は文字でしかないから、即物的に興奮するわけではないし、そのためだけだった面倒くさい。そもそも、なんの深みもないのでは読む意味がない。要するに、読むものがない。
そんなとき、重松清を読んで、なぜかはよく分からないが、「分かる」と思った。数十年前、いじめが社会問題になり始めたとき、多くの大人は「いじめなんか昔からありましたよ、意気地がないんです」と言っていたが、そういう見方はしていなかった。もしかして作者は同年代かもと思ってプロフィールを見たら2歳下だった。ちなみに、私の薦めで『ビタミンF』を読んで「同世代の親にしか分からない感覚」と感想を漏らしていたBさんは、重松さんより1歳下だった。(黒)



