小説抄 其の37「荒俣宏『本朝幻想文学縁起』」
「名著解題」という授業があった。平たく言えば読書案内だが、誰もが知っている名作は紹介せず、そんな本があるんだという本ばかりをとりあげた。講師は無名の物書きだったが、講義を聞いてただ者ではないと思った。何しろ、ヴォルテールの『カンディード』について、それがいかにおもしろいか90分も語り続けるのだ。しかも、ピカレスク小説、ライプニッツ哲学といった耳慣れない用語も分かりやすく解説してくれる。どんだけ知識があるんだ、この人に知らないことはないのか。心底そう感嘆した。
うっかり無名と書いてしまったが、それは私が無知なだけで、本屋に行くと何冊か著作があった。最初に買ったのは『本朝幻想文学縁起』。学生にはちょっと値が張ったが、空海、平田篤胤、上田秋成、安倍晴明……百物語になぞらえて百の項目に分かれたすべての話に興奮させられた。特に、当時はあまり知られていなかった陰陽師、式神といったあたりは震えるほど興奮し、これはこのまま小説にしたら大ヒット間違いなしだと思った。後年、先生は小説を書き、日本SF大賞を受賞、映画化もされたが、それは『本朝幻想文学縁起』を素材に物語を作ったといったものだった。
作者は荒俣宏、陰陽師が出てくるその小説は『帝都物語』だが、公募ガイドの巻頭ページを担当していた頃、先生に原稿を書いてもらおうと考えた。しかし、当時、先生は居所が知れず、噂では某出版社に居候しているとのことだった。早速、電話してみる。「そちらに荒俣先生はいますか」「はあ、いますね」。どうやら“いる”らしい。「お帰りは?」「さあ?」。その言い方には、そんなこと私が知るかいなってなニュアンスがあった。まさか無断で住みついているわけじゃないよなと思ったが、何度か電話するうちにやっとつかまり、原稿を書いてもらうことができた。
原稿には、サラリーマン時代の十年間、睡眠時間を削って翻訳や評論を書いたという壮絶な修業時代が書かれていた。先生みたいに博識になりたいと憧れるのは簡単だが、睡眠時間三時間を十年と言われると怯んでしまう。憑りつかれたように書くのも快感だけど、貪るように眠るのもまた捨てがたいしねえって?(黒)
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