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社員ブログ

小説抄 其の36「吉行淳之介『夕暮まで』」

2010-12-14

二十歳過ぎ、ある会社の寮にいたとき、同世代の男が札幌から研修に来て、一週間だけ隣人になった。彼とはほとんど会話をしなかったが、明日はもう札幌に帰るという夜、最後だから飲みにいこうと居酒屋に誘われた。そこで何を話したかは忘れてしまったが、「吉行は読むか」と訊かれ、「読んだことない」と答えたら、「なぜ読まん」と責められたのをよく覚えている。さらに彼は「俺は小説なんて読まないが、吉行はいいぞ。ぜひ読んでくれ、いや読め」と執拗に絡んできた。


このとき、私は吉行のことはおろか、「第三の新人」という言葉すら知らなかった。名前は知っていたが、それは少し前に映画化された「夕暮まで」の原作者という理解に過ぎず、しかも、エロ小説のたぐいだと思っていた。だったら読んでも仕方ない。俺が小説に求めているのはそういうことではない。そう決め打ちしていた。しかし、彼は「そうじゃない」と言い、「うまく説明できないから自分で読んでみてくれ」と手まで合わせる。はあ、それじゃあ読んでみます――。


それで「夕暮まで」を読んだ。「夕暮れ族」という流行語を生んだ短編だ。主人公は中年男と若い女。彼女は処女にこだわり、性交以外はなんでもするが、最後の一線は越えない。それで男は女の大腿部にオリーブオイルを塗り、そこを陰部の代用とする。やっぱりエロ小説じゃん!――。ちなみに、後年、風営法の影響で素股が復活したとき、「現代の性風俗が生みだした技」とうたっている広告があったが、「夕暮まで」によると、それは江戸の遊郭時代からある技だそうだ。


昔は処女信仰があった。処女膜という俗説もあった。そう言えば「処女探し」なる雑誌の企画もあった。今考えると、そんな時代に処女であればいいのかということを問題とした着眼点に驚く。札幌の彼に「人間が描かれている」と力説されても、当時はエロ小説のたぐいに人間が描けるかと思っていたが、人間を描くためには性描写は避けて通れない道だった。ただ、性描写自体を目的とするか、それとも手段とするか。それによって作品の位置づけは大きく変わる。(黒)