小説抄 其の33「イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』」
お裾分けをしたら、「そんなことしないでくれ」と断られる。そういう光景を何度か目にしたことがある。かつての日本人は他人から施しを受けることを恥とし、恥をかくことを極端に恐れたから、そんなに私が貧乏に見えしかと言って怒ったわけだ。それで仕方なく「いえ、ほんのつまらないものですから」と言って無理やり受け取らせたのだが、そんな慣習もなくなって久しい。
昔は敷居を一歩でも出たらそこは世間と教えられた。世間に出たら恥をかくな。外聞が悪い、みっともない、世間体が悪い。神経質なまでにうるさかった。家の中では許されても外ではだめ、家族旅行のときですら父親は背広姿だった。日本には一神教が広まらなかったので、なんらかの方法で人の勝手を抑える必要があり、そこで世間の目というものに禁忌の役目を負わせたのだ。
こうした恥の文化は欧米化の流れの中で否定された。確かに、恥を恐れて消極的になる弊害はある。教育の現場でも、学校の先生は、ほら、外国人を見ないさい、もっと自由に、個として生きてますよ、人それぞれでいいんですよ、恥ずかしいなんてことはないんですよとさかんに言い、おかげでずいぶんと楽になった。本当に、自堕落なまでに楽である。
しかし、スノボの国母選手の服装問題が起きたときはちょっと考えてしまった。別に誰にも迷惑をかけていないし、服装は人それぞれの好みでもいいが、TPOもあろう。その点、他国の方々は一見自由に見えて、その人たちなりの最低限の節度は持っている。彼らにはときどき恐ろしい罰を与えてくれる神という名の歯止めがあるから、際限もなく恥知らずにはならないらしい。
イザヤ・ベンダサン(山本七平)は、日本人は無宗教という“日本教”の信徒であり、信徒自身も自覚しえぬまでに完全に浸透しきっていると言う。だから異教が広まらないのだが、そんなことから日本人は恥の文化を捨てる一方、それにかわるものを持てないまま、無節操に自由という思想を輸入してしまった。どこに行こうと、鳴こうとカラスの勝手でしょと言って。(黒)
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