小説抄 其の32「東野圭吾『分身』」
中学1年の体育祭のとき、まだ10時前だったが、誰かが先生に「お菓子食ってもいいですか」と聞いたら「いいぞ」と言うので、クラス中が歓声をあげてポテトチップスだのポッキーだのを食べ始めた。と、横を見ると飯野君が弁当を広げている。誰かが「おまえ、何、飯食ってんだよ。食っていいのはお菓子だけだぞ」と言うと、周囲は大爆笑。以来、彼にめしというあだ名がついた。飯食ったから「めし」って。子どもがつけるあだ名ってストレートで残酷だ。
3年後、高校受験の翌日、N高を受けた人たちが教室で騒いでおり、聞けばN高の受験会場にめしがいたと言う。「そんなはずない。めしはS高だよ。俺は一緒だったから保証してもいい。他人の空似だ」と私は反論したが、N高受験組は譲らない。「他人の空似なんてもんじゃない。何から何までそっくりだった。めしじゃなければ双子だ」と言い張るので、みんなしてめしのところに確かめにいった。しかし、めしはしごく真顔で「俺は一人っ子だよ」と言うのだった。
東野圭吾の『分身』は一卵性双生児というクローンを扱った小説だが、分身を思うときは、俺があいつで、あいつが俺だったかもしれない可能性を考えるだろう。私も、もしもこの世に双子の兄弟がいたら、やはり会ってみたくなる。だが、怖くもある。似ているにしろ似ていないにしろ、自分の人生を悔やむかもしれない。そもそも、自分と同一(に近い)人間に会って、どうして哲学的な気持ちにならずにいられよう。存在するってどういうことだと思わずにいられよう。
成人したあと、誰かが言った。「めしって、やっぱり双子だったんだってさ」。おそらく家庭の事情だろう、二人も育てられないということで一人は里子に出された。親もいずれは話すつもりだったとは思うが、中学生の段階では知らせていなかった。私たちがあれこれ詮索してしまった結果、親から聞かされる前に、そういえば思い当たる節が……と気づいてしまったかもしれない。中学生といえば多感な時期だ。相当の動揺があっただろう。今思うと、悪いことをしたと思う。(黒)
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