TK-プレス 其の30「帯に大きし」
書店を模して本棚を五十音順にすると、片岡義男を挟んで梶井基次郎と河盛好蔵が並んでしまったりするのだが、それでもみな自分の本だからジャンル違いはさほど気にならない。許しがたいのは家人が読んだ小説が交じることで、そんなときは「こんな2時間ドラマになるようなものは小説じゃねえ」など言って密かに端のほうに押しやったりしたりする。本棚は履歴書のようなものだから、たとえ家人のものでも、身に覚えのない経歴を並べられるのは居心地が悪い。
書店で本を買うと、「カバーはおつけしますか」と聞かれるが、私はつけない。あんなものをつけて本棚に置いたら、どれがどの本だか分からなくなってしまうし、いちいち中を開いて確かめるのも面倒だからだ。そう言うと、「人前で読むときに恥ずかしくない?」と言われるが、冗談じゃない。他人に見られて恥ずかしいような本は読まないし、仮にそれが『エロティシズム』であっても、それは渋澤龍彦を知らないほうが悪いのだと思って気にしない。
ただ、買ったままの状態で読んでいると傷むので、カバーははずして読む。その際、カバーに付いている帯はまっさきに捨てる。帯というのは「○○氏、絶賛」とか書かれて本に巻いてあるやつだが、私はあれが大嫌いだ。帯は本ではなく広告である。広告は本来、本に挟み込むべきものであるが、今では本に巻きついて、しかもデザインの一部にまでなっている。だから、帯を見ると、「チラシの分際で『私、本の一部です』みたいな顔しやがって」と頭にきて破り捨てるのだ。
先日も、吉田修一の『悪人』を買ったら、「9.11ロードショー」のように書いてあったので破り捨てようとしたが、これが取れない。おかしいなと思ったら、カバーに印字してある。本自体に宣伝を入れるか!と思いながら、いつものようにカバーを取ると、なんと中にカバーが! つまり二重のカバーというか、一皮目はカバーに化けた帯だったのだ。ときどき、このような進化した帯を見るが、さすがにこうなると捨てられない。完敗である。いや、本当のカバーも隠れてしまうから引き分けか。って、いったいなんの勝負か分からないけれど。(黒)
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