小説抄 其の28「片岡義男『人生は野菜スープ』」
夢を公言すると叶うというのは嘘だと思う。私の場合は二度盗まれた。一度目は高校時代。将来はライトのような建築家になると熱く語っていたら、お前の話を聞いて俺も興味を持ったと親友が建築学科志望に鞍替えし、大学院まで出て、今はそこそこ有名な建築家である。
一方、私はと言えば、建築学科には入ったが中退し、水商売のバイトに明け暮れていた。二度目はそんなとき。バイト仲間にKという男がおり、水産学部の学生だったが、夢も希望もない毎日を送っていた私は半ば自棄になって、「卒業後は水産庁のお役人か。そんな仕事、おもしろいか(水産庁の皆さん、すみません)。だいたい、サラリーマンになろうなんてやつはアホだな、男だったらフリーだよ」と言って、「将来、俺はフリーライターになる」と公言していた。
そんなある日、Kが給料日に給料を全額使い果たそうと言い出した。なんで?と問う私に、彼は「片岡義男の『人生は野菜スープ』という短編集の中に『給料日』という小編があり、それがそういう話なのだ」と。で、ぜひ読んでみてくれと。正直、気は進まなかった。読みたい本は無数にある。そんな流行作家の本など読んでいる暇はないと思ったのだ。
しかし、読んでみると、これが意外とおもしろかった。それまで読んでいた小説とは違い、内面というものが書かれていない。さらに、なぜ給料を一晩で使うかという動機も書いてない。ところが、何もないのに(何もないだけに)、あるはずのものを勝手に考えてしまう。こういう小説もあるのだな、おれは小説知らずだと、表紙がポップというだけで侮った自分を反省したりした。もっともだからといって、「給料日ごっこ」は実行しなかったけれど。
それから20年以上経ち、本屋で立ち読みをしていたらKの本があった。聞くところによると、釣りのフリーライターをしており、そこそこ有名ならしい。大学卒業後、いったんは釣り新聞に就職し、まもなく転身したそうなのだが、そのきっかけを作ったのはどうもかつての私のセリフだったらしい。言った本人は勤続20余年のサラリーマンなのにね。「欲望は常に他人の欲望のコピーである」というのは本当だと思った。(黒)
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