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社員ブログ

TK-プレス 其の27「事実の重み」

2010-08-03

半村良は若い頃、無数の仕事を経験したそうで、それが小説を書くうえで非常に役に立ったと言っているが、だからと言って、体験しなければ書けないわけではないし、何か特異な体験をしたからと言って書けるわけでもない。もしもそうなら、作家修業などせずに、秋葉原あたりで無差別殺人をしたほうがいいということになるだろうが、実際はそうではない。


それにも関わらず体験至上主義のようなことになってしまうのは、明治から大正にかけて告白体や私小説が流行したことに原因があるのかもしれない。なるほど、実体験を書けばディティールも重ねやすいだろうし、本人も実感があるから書きやすいということはあるだろう。しかし、それだけでは単なる手記であり、小説とは言えない。


それに人が経験できることには限りがあるから、体験至上主義ではそのうちネタ切れとなり、藤村のように書くために姪を犯してまで事実を作ることに汲々としなくてはならなくなる。ならば、他人の体験を借りればいいか。遠藤周作は、米軍捕虜八名が医療機関で生体実験にされたという事実を基に『海と毒薬』を書いた。でも、生体実験という事件を調べたら、誰でも『海と毒薬』が書けるというわけではない。『海と毒薬』にはテーマを浮き彫りにするために作為的に書かなかった部分もあり、それを書くか書かないかに力の差が出ると言うべきだろう。つまり、何を体験するかではなく、体験を通じてそこに何を見るかということになる。


河野多惠子の「雪」という作品は、発狂した妻が発作的に長女を庭の雪の中に埋めてしまうという衝撃的な内容だが、芥川賞の候補にはなったものの落選し、選評も散々だった。これについて河野は著書『小説の秘密をめぐる十二章』の中で、「(人から話を聞いて)書きたいものに飛びつき、書きたいことなしに小説を作れば、つまりはそのような代物にしかならない」と書いている。ただ、書きたいことは誰にも教われないし、教えることもできない。(黒)