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社員ブログ

小説抄 其の25「柄谷行人『マルクスその可能性の中心』」

2010-07-13

小学校の頃、ある日、赤ちゃんはどこから出てくるのだろうと思った。最初に考えたのはお腹を切ってということだったが、母親の腹に手術の跡はなく、それで思いあまって聞いてみた。たぶん、母親もどう説明していいか窮したのだろう、困った顔で「お尻」と言った。今なら、「それじゃあ、俺はうんこか」と突っ込みたくなるところだが、当時は答えを得て、「そうか、お尻か。へえ」ということですっきりし、すっきりしたらあとはどうでもよくなってしまった。


そこに謎があれば、突き止めずにはいられないのは、女の子より男の子だろう。スカートの中が気になればまくってみたくなり、パンツの中が気になれば脱がしてみたくなる。洞窟があれば探検してみたくなり、山があれば登ってみたくなる。そうして思春期を迎える頃になると、たいていの男の子は程度の差はあっても「人はどこから来て、どこに行くのか」という謎に直面するのではないか。この「どこから」が気になった子は歴史や考古学に興味を持ち、「どこに」に関心が向いた子はもっと現実的な分野を志向するようになるのではないか。


ご他聞に漏れず私も「人は……」と考え、ある時期はそのことばかり考えていたが、明確な答えが得られず悶々としていた。そんな折、『マルクスその可能性の中心』の中にこんな一節を見つけた。《資本制社会はどこからきてどこへ行くのかという問いに、われわれは答えることはできない。なぜなら、その問い方そのものがまちがっているからだ。》これを読んだとき、「人はどこから来て、どこに行くのかという問いに答えることはできない。設問自体が間違っているからだ」と読んでしまい、そうか、解なしが答えなのか(じゃあ、考えても仕方ない)とすっきりし、すっきりしたらあとはどうでもよくなってしまった。浅いというか、甘いというか。


それにしても柄谷行人の文章には痺れる。ある年代の方々には吉本隆明は神だったようだが、同様に、ポスト構造主義の時代に学生だった人にとって、柄谷行人は紛れもなくスターだったな。(黒)