小説抄 其の23「尾辻克彦『肌ざわり』」
昭和54年に「肌ざわり」が中央公論新人賞を受賞した際、選考委員の河野多恵子氏は「この〈肌ざわり〉のような作品は下読みの段階で落とされかねないものだけど」と挨拶したそうだ。では、下読みの段階で落とされかねない作品とは? 以下、冒頭近くの一節。
「あ、これいま書いているの?」/「うん。床屋の話」/「話って、これ小説?」/「うん、小説にしようかと思っているんだけど、まだいまは随筆」
この作品では「床屋に行く話」と「その話を書いている作者の日常」が同じ次元にある。通常、作者は作品の外側にいて作中には出てこないが、「肌ざわり」ではそれが地続きとなっているのである。言わば、映画のシーンの外にいるはずのスタッフが映されていて、本編とメイキング映像が交互に出てくるような作りになっているのだ。確かに、「なんだ、これ?」である。
ただ、話は抜群におもしろい。そして深い。尾辻氏の別の作品に「路地裏の紙幣」という作品があり、これは「千円札を落としたので拾った人は届けてほしい」という貼り紙を見て、主人公の父子が届ける話なのだが、しかし、落とし主は「醤油のシミの位置が違う」と言って受け取らない。「うそでしょ?」である。「お金って交換可能なもので、この千円札はいいけど、あの千円札はだめってある? マルクスもびっくりだよ」である。尾辻氏の作品にはかくの如く読後に深く哲学させられるものが多い。余韻というより、何十年も糸を引く深さなのだ。
ちなみに、尾辻克彦氏は精巧な偽千円札を描いて起訴されたこともあるイラストレーター、赤瀬川原平である。氏に小説を書かせたのは中央公論社の文芸誌『海』にいた村松友視だそうだが、ということは、下読みの段階からマークしていたのかもしれない。画家が小説を書くということについては池田満寿夫という先例もあるし、期待大だったんだな。でも、だとしても、期待を裏切らないこれだけの作品を物したのはすごい。天ってときどき二物を与えるよなあ。(黒)
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