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社員ブログ

TK-プレス 其の22「半生自体が小説」

2010-05-25

尾崎紅葉、幸田露伴といえば、紅露時代と呼ばれる時代を築いた明治文壇の重鎮だが、このうちの露伴に師事した一人に田村松魚という作家がいる。一時期は露伴の高弟として活躍したらしいが、明治36年から6年間アメリカに留学し、帰ってきたときは日本の文壇は島崎藤村や田山花袋の自然主義文学の時代に様変わりしており、松魚は時代遅れの作家になっていた。


そこで松魚は同門の女性に目をつけ、明治42年、未入籍ながら結婚し、小説を書かせる。俺の小説はだめだけど、こいつには才能がありそうだと思ったのか。また、彼女は作家を志すもひところは自己表現の方法を他に求め、前年の明治41年には日本初の女優・川上貞奴の女優養成所一期生となって舞台にも出ていたそうなので、容姿も端麗だったのかもしれない。


翌明治43年、大阪朝日新聞が「大朝1万号記念文芸」(1等1000円)という懸賞小説を募集する。松魚は女房の尻をたたいて「あきらめ」という小説を書かせ、締切間際にやっと応募にこぎつける。しかし、小説を書いたからといって即収入につながるわけもなく、二人は生活苦から毎日ケンカばかりしていた。「もういや、別れる」「そうか、じゃあ出ていけよ」と話がまとまってまさに女房が家を出ようとしたとき、「郵便です」。なんとそれは受賞の知らせだった。


この女房とは田村俊子で、俊子はその後、明治文壇の寵児となり、樋口一葉につぐ女流流行作家となる。松魚としてはしてやったり、収入のあてもできてめでたしめでたしだったはずだが、小説指南役というよりは髪結いの亭主のようになってしまった松魚と冷めた夫婦関係を続ける俊子の前に年下の恋人が現れる。それがジャーナリスト・鈴木悦である。
だが、姦通罪があった当時、今で言うダブル不倫は法的にも同義的にも世に受け入れられるはずもなく、二人はカナダに逃避行。その後、俊子は単身中国に渡り、太平洋戦争末期の上海で脳溢血のため倒れ、三日後、帰らぬ人となる。生き方そのものが小説なような半生であった。(黒)