小説抄 其の21「江國香織『号泣する準備はできていた』」
今年、直木賞を受賞した白石一文は、直木賞作家・白石一郎の息子さんだそうだが、親子で物書きというと、斎藤茂吉×北杜夫、吉行エイスケ×吉行淳之介、新田次郎×藤原正彦の名が浮かぶ。海外には大デュマと小デュマという例もある。しかし、父と息子で同じ道を選び、なおかつともに大成した例は意外と少ない気がする。手塚治虫×手塚眞、芥川龍之介×芥川也寸志など、親とは違う道を行けばあからさまな比較もされず、素直に才能を発揮できる気がしなくもない。
それに比べて父娘はどうか。森鴎外×森茉莉、幸田露伴×幸田文、太宰治×津島佑子・太田治子、井上光晴×井上荒野、吉本隆明×よしもとばななといった名がたちどころに挙がる。父親の遺伝子は多く娘に伝わるのだろうか。それはともかく、誰それの子と言われると、それだけで関心を持ってしまうところがある。江國香織の場合もそうで、1987年に「小さな童話大賞」、1989年に「フェミナ賞」を受賞したときは江國滋の娘ということで興味をもった。
しかし、読む気はしなかった。当時、児童文学にはさほど関心がなかったし、過大な期待をしても長嶋一茂のように空振りに終わる場合もある。何より(こちらの人生経験が乏しいせいだが)、女性の書くものは理解できないという思い込みもあった。女性の脳は共感脳で、男性は解決脳といった話をよく聞くが、小説にもそうした性差がある。男はどうしたってロジカルに読んでしまうが、女性は感覚的で、女流作家で男性ウケのいい人は、頭のどこかが男だ。
それからしばらくして、児童文学の西本鶏介先生と話していたら「娘のほうが才能がある」と言っていたので、一念発起して『号泣する準備はできていた』をひもといてみた。読んでみると思いのほかおもしろく、感覚的な結構というか、いい意味での破綻のしようも小気味よかった。と同時に、女流文学アレルギーも治ってしまった。時を経て、こちらもそれなりに大人の読み手になったということか。とにもかくにも、めでたし。(黒)
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