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社員ブログ

TK-プレス 其の18「詩の条件」

2010-03-30

1968年、鈴木志郎康は『罐製同棲又は陥穽への逃走』の中で、《私は純粋ももいろに射精する》という一節が出てくる「私小説的ぷあぷあ」を初めとするぷあぷあ詩を発表し、「戦後詩はあるターニングポイントを通過した」と絶大な評価を受けた。


当時、私は小学生で、そんなことはつゆ知らない。というより、詩というのは悲しいだとか美しいだとかといったことを短い言葉で書いたものだと思っていた。その程度のレベルのまま大人になってしまったので、二十歳を過ぎて、ある詩に出会ったとき、カルチャーショックで寝込みそうになってしまった。以下はその冒頭。


《街灯にホクロ点じる ロミ山田に似た買い物帰りの奥さん あれほどこの道は物騒ですよと云っているのにそれみなさい うんこにつるっこつるっこしてころんだデショー よくよく見ればタダレ便のそぐわぬ道しるべなどと云いたげに奥さん立ち上るや またまたつるっこつるっこしてとてもお腹立ちのようですが サガリオロウ! 亭主のことばかり考えおりおって このうんこをなんと心得る(以下省略)》


『脳膜メンマ』に収録された「うんこ差別」である。叙情的でもないし、センテンスも長い。これって詩? と思った。しかし、作者は詩の芥川賞とも言えるH氏賞を受賞しているというし、やっぱり詩なんだろうなあ、でも、だとしたら、詩っていったいなんなんだと頭を抱えてしまった。


その疑問を解決すべく何回も読んだ。十回、二十回……百回は読んだ。結果、感銘・共感とは無縁ながら、読んでいると乗り物に揺られているような心地よい言葉のリズム(内在律)があることに気づいた。なるほど、律こそが詩の条件かと。そう思って読み直すとかなり言葉を選んでいることが分かる。後日、ねじめ正一が鈴木志郎康の弟子だと聞いて、「うんこ差別」は見かけこそエログロながら、「私小説的ぷあぷあ」という基本には忠実だったのだと納得した。(黒)