小説抄 其の16「フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』」
荘子に「胡蝶の夢」という話がある。あるとき、荘子は蝶になって百年遊ぶ夢を見る。夢から覚めてみると、自分が蝶になった夢を見たのか、蝶が自分になる夢を見ているのか判然としなくなるという故事だ。
言われてみれば、生きていると思っているのは錯覚で、実はリアルな幻想なのかもしれない。雀は実は飛べないという話があって、自分が飛べないことを知らないから飛べてしまうんだという冗談なのだが、案外、私たちも生きていないことを知らないから生きているつもりになれるのかもしれない。
「ブレード・ランナー」としてのちに映画化されたディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を読んだとき、まず思ったのはこのことだった。
主人公のリック・デッカードは、殖民惑星から地球に逃れてきた八人のアンドロイドを捕らえるバウンティー・ハンターだが、アンドロイドは精巧にできていて、テストをしなければ人間と見分けがつかない。中には脳に人間の記憶が埋め込まれ、自分を人間だと思い込んでいるアンドロイドもいる。それゆえ、テストの結果、自分がアンドロイドだと判明したとき、彼は一瞬にして人格を否定され、アイデンティティを喪失し、まさに人間のように苦しむ。その姿を目の当たりにしたデッカードが、最後には自分で自分をテストするのは皮肉だ。
そんな話を友人たちとしていたとき、「DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP?」という原題はおかしいと言い出した人がいた。主語が三人称であれば「DOES」ではないかと。(よく考えればヒトでも三人称はあり得るわけだけど、そのときは勘違いしていて)ディックはきっとアンドロイドをヒトだと考えていたんだろうという結論に達し、それは深いなあと。ところが、そのとき、カバンの中から文庫本を取り出した誰かが言った。「違うよ、『ANDROIDS』で複数だから、三単現のSはつかないよ」……勘違いしたままのほうがよかったかも。(黒)
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