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社員ブログ

K-プレス 其の16「パクリとオリジナル」

2010-03-02

あるとき、有線でかかった曲を聞いて、友人が「サザンか、懐かしいな」と言った。「どこがサザンだよ、ビリー・ジョエルだよ」と言うと、彼曰く、勘違いするほど似ていると。試しにyou tubeで確認してみると、確かにイントロのあたりは似ていた。


ただ、パクリとは言えない。たまたま似ていただけかもしれないし、ビリー・ジョエルにインスパイアされて作ったのかもしれない。そんな例はいくらでもある。柳ジョージはクラプトンを崇拝しているのでかなり似ているし(容姿も)、佐野元春、井上陽水、吉田拓郎……もっと言うと大半のミュージシャンにはビートルズやストーンズ、ボブ・ディランの影響が見られる。


そもそもビリー・ジョエルだって、「Honesty」は「Yesterday」、「My Life」は「Get Back」っぽいと言えなくもないし、ビートルズにしても「Come Together」はチャック・ベリーの「You can catch me」のオマージュだろう。繰り返すけど、別にパクリじゃない。


小説にも似たようなところがあって、村上春樹を読んでいて、この書き方はチャンドラーっぽいとか、これはフィツジェラルドの影響かななんて思うこともあるし、高橋源一郎の『さようならギャング』たちの断章はカート・ヴォネガット(ジュニア)を模したものだろう。ただ、影響された作家が外国の人だったから、超がつくほど新しく見えた。


繰り返すけど、別にパクリじゃない。パクリというのは、元の作品の形がそのまま未消化で出たもので、かつ作品の核を成すものだろう。太宰治と山本周五郎とカミュとカフカを原型がなくなるまで消化し(足して割るということではなく)、そこから全く新しいものを生み出せば、それは見紛うことなきオリジナル作品となる。


というか、全く新しいというものはない。それは食わなければ血肉ができないのと同じ。何ものにも拠らない全き新しいものあるとしたら、それはもはや小説とは呼ばないだろうと思う。(黒)