小説抄 其の13「安部公房『終りし道の標に』」
本との出会いは恋愛に似ている。一目見て気に入る場合もあれば、存在自体は以前から知っていたもののよくは知らず、しかし、ひょんなきっかけで急激に親しくなる場合もある。前者の例を言えば、私の場合は安部公房の『終りし道の標に』がそうだった。
安部公房と言えば、『砂の女』『箱男』『他人の顔』『燃え尽きた地図』といった正統的な小説らしくない小説で知られるが、デビュー以前に、氏の一連の作風とはちょっと違う、しかし、その後を予感させるような処女長編を書いている。それが『終りし道の標に』だが、同作は埴谷雄高によって見出されたときは『粘土塀』という題名だった。それが昭和23年に出版されたときに『終りし道の標に』に改題され、その後、多少の改訂がされて昭和40年に決定稿に至っている。
私が読んだのは改訂版のほうだが、本編の冒頭、《終った所から始めた旅に、終りはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ。何故に人間はかく在らねばならぬのか?……。》には衝撃を受けた。昭和19年、理科系の学生も徴兵されると感じ、大学に無断で父親のいる満州に帰ってしまったという作者の実体験とは関係ないとは思うが、虚構ではない、生の言葉という気がした。
このときの私と言えば、わけあって家族や友人など一切の過去と縁を切ってふらふらしており、こんな自堕落な毎日では将来は絶望的、人生終わった、終わったのだから死んだように生きるしかあるまいと思っていたときだった。そのせいか、「終った所から始めた旅に、終りはない」という言葉は、何かどんぴしゃと胸に嵌った思いだった。
そんな思い出深い作品なのだが、あるとき、『粘土塀』の冒頭が、《旅は歩みおわった所から始めねばならぬ。墓と手を結んだ生誕の事を書かねばならぬ。何故に人間はかく在らねばならぬのか?……ああ、名を呼べぬ者達よ、此の放浪をお前に捧げよう。》という若書きとも言える書き出しであることを知った。一目惚れした成熟しきった女性の、まだ完成に至る前の少女時代を垣間見た思いだった。(黒)
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