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社員ブログ

TK-プレス 其の13「子規と写生文」

2010-01-19

山部赤人は万葉集の中で「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」と歌っているが、小倉百人一首に載せる際、これに手を加え、「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」としている。どちらがいいかは好みにもよるが、作者としては後者をとるだろう。いくら素朴で雄大でも、ひとたび技術を身につければ作者は技巧的でないほうに戻ることはできない。


このように和歌は、万葉集-古今和歌集-新古今と、時代を経るごとに技巧的になっていき、古今集で小野小町が詠んだ「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」のように「色(色恋)・降る(経る)・長雨(眺め)」といった掛詞を用いたり、新古今になると本歌取りといったテクニックが駆使されるようになる。このこと自体は悪くないが、それだけに終始すると単なる言葉遊びに陥る。


明治31年、正岡子規は「日本」に連載した「歌詠みに与ふる書」の中でこれを批判した。スローガンは「万葉集に還れ」であり、具体的には「見たこともないものを書くな、思ったこともないことを書くな」という写生の技法を提唱した。これは文壇全体に影響を及ぼした。明治から大正にかけて、島崎藤村や田山花袋の告白体が生まれたり、欧米人が読めばエッセイとしか思えないような私小説が生まれたりしたのにはいろいろな原因があると思うが、最大の理由は正岡子規のこの改革にあるのではないかと思う。


その後、子規が提唱した「見たまま有りのままに書く」という写生文は日本文学の伝統になるのだが、若干誤解がある。子規は「写生といひ写実といふは実際有のまゝに写すに相違なけれども固より多少の取捨選択を要す。取捨選択とは面白い処を取りてつまらぬ処を捨つる事にして、必ずしも大をとりて小を捨て、長を取りて短を捨つる事にあらず」と言っている。つまり、見たままなんでも書くわけではないのだが、この取捨選択というものがまた難しい。(黒)