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社員ブログ

小説抄 其の9「志賀直哉『和解』」

2009-12-01

論理学に帰納法と演繹法があるが、何かへの興味も下っていくタイプと遡るタイプがある。前者は古いものから手をつけ、後者は新しいものから始めてそれに影響を与えたものへと遡行していく。私はというとごく普通に一から始めたいタイプなので、小説に興味を持ったとき、当然、関心は近代文学に向いた。


しかし、明治の文学は漢字が多くてとっつきにくく、気持ちだけが空まわり。小6のときに読んだ『吾輩は猫である』は読了するのに1年もかかったけど、またあんなことになるのかとなかなか気分が乗らない。それでも、こういうものは若いときでないと読めない、今読んでおくべきだと気持ちを奮い立たせ、とにかく買うだけ買おうと受験勉強の合間に書店に向かった。


坪内逍遥、幸田露伴……めまいがする。二葉亭四迷、国木田独歩……溜め息しか出ない。島崎藤村『夜明け前』……な、長い。明治はだめだ、大正で許してもらおうと誰に言い訳しているのか分からない言葉を吐きつつ志賀直哉に手をかけた。『暗夜航路』……こんなに厚くて上下巻なんて勘弁してくれ、数Ⅲの総復習もしなきゃならんのだと思ったとき、『和解』が目に入った。薄い。これならすぐに読み終わりそう。しかも有名らしい。


確かに読了するのに三日とかからなかった。しかし、読後の感想は、「お偉い方々が絶賛しているんだから名作なんだろうなあ、たぶん」といったものでしかなかった。そのことを悪友に言うと、理解力不足とばっさり。苦行のように苦労して読んで劣等感しか覚えないとは。まったくトホホだと思った。


それから十年以上が過ぎ、長男が生まれ、あまりのか弱さに風が吹いても心配になり、あれこれと余計な心配ばかりしていたとき、ふと親の存在を煩わしいと思っていた昔を思い出し、親はこんなふうにオレを見ていたのかと初めて気づくと同時に、はて? この心境、どこかで聞いたことがあるなと思ったら、それは『和解』そのものだった。あのとき、悪友は理解力不足と言ったが、あれは絶対に嘘だ。本にはそれを読むにふさわしい年代がきっとあるのだ。(黒)