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小説抄 其の8「芥川龍之介『魔術』」

2009-11-17

純文学は自分のために書いた芸術性の高いもの、大衆文学(エンターテインメント)は読者のために書いた娯楽性の高いものという分け方があるが、今はそれらが融合した中間小説が多く、その境目はボーダレスと言われている。しかし、それならば昔ははっきりとした境界があったのかというと、それがよく分からない。
1961年に伊藤整は「『純』文学は存在し得るか」という評論を書いているので、戦後は「純文学/大衆文学」という二大政党制みたいな構図があったのだと思うが、大正時代あたりまではどうだったのだろうか。


そもそも、純文学/大衆文学という構図ができたのは、高度のエンターテインメントが出現した戦後であって、どちらかというと大衆文学が知的レベルの低い人が読む探偵小説、チャンバラ小説、今で言う娯楽漫画程度の地位しかなかった大正時代あたりでは、純文学/通俗的な大衆文学という区別はあっても、純文学/高度のエンターテインメントという棲み分けはなく、文豪たちにも「私は『純』文学を書いている」という意識は薄かったのではないかと思う。結果、小説と言えば純文学であり、この純文学にはエンターテインメント的な作品も多く含まれていたのではないか。


うーん、なんか堅苦しいことを書いているなあ。要するに、芥川の『魔術』を読んで、これは純文学なの?と思ったというだけだったりする。それほど伏線の張り方やミスリードのさせ方、話の運びが絶妙で、のちの世のミステリーやショート・ショートの教科書と言っても過言ではないと思ったのだ。もっとも、どんでん返しのような大仕掛けがあるからと言って、それだけで純文学ではないということにはならないけれど。(黒)