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社員ブログ

TK-プレス 其の8「文学史のタイムトンネル」

2009-11-10

以前、「現代作家写真館」という作家の書斎を訪問する連載があり、通りすがりに作家の候補を挙げてくれと言われたので、たまさか読んでいた作家名を出し、「丸谷才一さんをぜひ」と何気なく言った。そんなこともすっかり忘れていたある日、連載担当の写真家、榊原和夫さんが来社し、「丸谷さん、OK出たよ、来週金曜、同行してくれ」と言う。


「来週? 来週は社員旅行なんですけど。っていうか、オレ、担当じゃないし」と言うと、「社員旅行なんか行かなくていいよ。丸谷さんに、編集部に大ファンがいるって言っちゃったもん。来てくれなきゃ困るよ」と若干キレぎみ。まいったなあ。社員旅行はいいとして、大ファンだなんて。ファンはファンだけど、読んだ本はすべて文章読本や日本語関係で、『たった一人の反乱』も『横しぐれ』も『女ざかり』も読んでないし、今から読もうにも時間がない。小説はじっくりと、興を覚えたときでないと読めない性質なのだ。


そんなわけで、変に質問して“読んでない”ことがバレないように終止控えめに撮影に立ち会い、さて、そろそろ帰ろうかというとき、丸谷さんの机に硯があるのに気づいたのだが、仕事が終わって気が抜けていたのか、「筆で小説を書くんですか」とアホなことを聞いてしまった。丸谷さんも内心、そんなわけあるかい!と思ったとは思うが、「谷崎潤一郎賞をもらったとき、谷崎さんの奥さんにもらったんだよ」と丁寧に教えてくれた。


谷崎の奥さん? 『細雪』の幸子のモデルの? へえ! と思って硯を覗いたとき、そこに「谷崎潤一郎、丸谷才一……」と連綿と続く文学史のタイムトンネルのようなものが見え、その末席に自分がいて、なんだかわけもなく感動してしまった。作家の持ち物だとか遺品だとかには一切興味がなく、文学館とか記念館とか生家とか太宰が心中した玉川上水とかに行くやつの気が知れないと思っていたが、あの硯の体験だけは不思議だった。(黒)