小説抄 其の6「井伏鱒二『山椒魚』」
2009-10-20
1990年、芥川賞作家の八木義徳さんに原稿の催促をしたとき、ちょうど全集のゲラ(校正刷り)を読んでいたらしく、「昔の作品に赤を入れだしたらきりがない。だから、ほどほどにしておく」とおっしゃっていた。作品は微妙な力学の上に積み重なったものだから、大きな修正をすると全体に影響し、通しで書き直さなければ流れが悪くなってしまうからだろうと思ったが、今にして思えば、このときの八木さんの頭には井伏鱒二の一件があったのではないか。
井伏鱒二は常に推敲しつづけた人として知られるが、1985年、『井伏鱒二自選全集』(新潮社)に「山椒魚」を収録した際は、作品の最後の17行、すなわち《ところが山椒魚よりも先に、岩の凹みの相手は、不注意にも深い歎息をもらしてしまった。》から、最後の《「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」》までをばっさり削ってしまった。連載小説を単行本にするときなどに大幅に加筆するということは珍しくはないが、既に世にでて久しい作品の、しかも結末の重要な部分を削るというのは異例のことだった。当然、賛否両論の議論が巻き起こった。
あれから二十余年、そう言えば今はどうなっているのかと新潮文庫を買い、2008年の第100版と、手元にあった1980年の第46版を比べてみたが、字詰めやふりがなを除けば内容はまったく同じだった。ということは、二つの「山椒魚」が存在することになるが、歌で言えば新潮文庫のほうは元歌で、自選全集のほうは「山椒魚1985年バージョン」ということになるのだろうか。(黒)
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