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社員ブログ

小説抄 其の4「山本有三『路傍の石』」

2009-09-22

病床の人に「(形見に)何か欲しいか」と言われたら、「気の弱いことを」と言って元気づけるのが普通だと思うが、父にそう言われたときは思わず「初版本を」と言ってしまった。それは近代文学の初版を復刻させたもので、ちょっとした思い出の品でもあった。


中学生のとき、ふとこの初版を見ると『新編・路傍の石』とあるのに気づいた。当時の新潮文庫はただの『路傍の石』だったが、初版本のほうはなぜか「新編」なのだ。こうなるともう違いを確かめずにはいられない。


ところが、箱を開けてみると断裁されておらず、ページが開けない。昔はペーパーナイフで1ページずつ切りながら読んだのだ。そこではたと考えた。これは切っていいものだろうか。いいわけないよな。レプリカだからいいか? いやレプリカだからこそまずいのでは? しばらく迷ったが、しかし、隠されたものを目前にしてどうして見ずにいられよう。“知りたい”は“食べたい”以上に我慢できないのだ。


最後のページのほうを切ってみると、果たして文庫にはない続きがあった。中学生にとって旧仮名遣いは難しかったが、それを読んで満足し、満足したら何が書かれてあったかはどうでもよくなってしまった。好奇心とはそうしたものかもしれない。


すっきりしたはいいが、問題が残った。これをどう始末するかだ。箱から出せないように細工するか、それとも隠匿してしまうか。迷った末、長塚節と谷崎潤一郎の間に挟んで静観することにした。幸い、初版本は洋間の飾りだったから繙く者もなく、その後も誰にも開かれることなく数十年を過ごし、今は私の本棚にある。(黒)