言葉処 其の91「芸人言葉の妙」
タレントは言葉を商売道具としているだけに、その“発明”には感心させられる。曰く、白けることを「引く」、もっと引くと「ドン引き」、ウケないと「すべる」、その心情は「痛い」、状態は「へこむ」。その多くが和語なのは、漢語より意味が広く転用しやすいからだろう。千原ジュニアが言う「残念な兄」は漢語ながら、ありそうでなかったということでは絶妙な言いまわしだ。
しかし、「言うても」の使い方は今いち気にいらない。「言うたら」は「言ってみれば」で、「言うても」は「言ったとしても」という意味だと思うが、最近は意味のない間投詞として使われている気がする。「嗅いでみて」の意で「におってみて」と言うのも引っかかる。「嗅ぐ」のは人の意思だが、「におう」は違う。関西では「におう」を他動詞として使うらしいので、その影響か。
これら今風の言葉が頭にあると、古い小説を読んだとき変な感覚を味わうことがある。たとえば、円地文子の小説『鬼』には、「普通に日本各地に昔から伝わっていた狐憑きなどの現象のほかに」という一文があるのだが、これなどは「普通にうまい」といった言い方に思えてしまう。また、作者は忘れたが、「あると思います」などもよく見かける。これなどは今読むとまるで天津木村だ。
太宰治の『走れメロス』には「そうです。帰って来るのです」とあり、思わず川平滋英風に「レインボー」と付けたくなってしまった(あれ、ちょっと古かった?)。古いつながりで言えば、「そうなのだ」のように語尾を強調した言い方をされると「バカボンのパパ?」と思ってしまう。文豪たちも、まさか半世紀を経て、そんなツッコミをされるとは夢にも思わなかっただろうね。(黒)



