短編集は面白い A・H・Z・カー
今日も短編の話をしようとおもうんだけどさ。
ミステリーやSFの短編集が、おととしの暮れあたりからたくさん出ていて、わりと売れてるみたいなんだけど。
実際読んでみると面白い本も多くてさ。とくにシオドア・スタージョンあたりは、俺もちょうど短編を読み逃していた世代なんで、ちょっとびっくりしたよね。
たとえば「ビアンカの手」と「不思議のひと触れ」を同じ作者が書いたとはとうてい思えないんだけど。「ビアンカの手」ってのはとくにやばい出来で、これを1947年に書いたスタージョンって人はほんとにどうかしてる。「ぶわん・ばっ!」てジャズ小説も印象的。べつになめてんじゃないよ。これも短編のタイトル。面白いよ。河出書房新社や晶文社から単行本が出てるから、読んでみて。
でも、最近の短編集ブームで一番驚いたのは、A・H・Z・カーっていう人の短編集が出たこと。この人の作品は、もう15年も前になるか、「ミステリ・マガジン」が分厚い特大号を出した時に載ってたのを読んだんだけど、独特の読後感がある作品だったな。一時作品を探したけど、寡作な作家で、何作かアンソロジーに載ってるのをみつけただけで終わったのを覚えてる。それだけにびっくりしてさ。本屋で見つけて、思わず声をあげて手にとって、なでさすったもんね。なんか、まわりの人が80センチくらいあとずさってたけどさ。
単行本のタイトルにもなってる「誰でもない男の裁判」って短編は、不思議なお話でさ。ある敬虔な神父さんが主人公。冒涜的な演説をしていた男を、「神の声」を聞いたという男が射殺する現場にいあわせて、いつのまにかその殺人犯の弁護側証人として出廷するはめになる。その殺人犯は最近話題のピアノマンみたく記憶を失っていて、とにかくまったく動機がないことから、神父さん、自分の信仰にかけて、男の聞いた神の声を支持してしまうのね。まして、男が殺したのは信仰に疑義をなげかけるセンセーショナルな講演を繰り返していた人物で、キリスト教社会の世論も、殺人犯の擁護にかたむいているような状況。そこで、出廷した神父さんはなにを語ったのでしょうか・・・、てな話。
このお話のどこが印象に残るかというと、それはひとえにその幕切れの方向。おお、そうくるのか。普通の人はそう思うのでは。すまんが俺もそう思った。この幕切れ、ひょっとするとこの短編のバランスを崩しかねない要素なのに、A・H・Z・カーって人はここをものすごく力を入れて書いているのね。実際、ラストの数行を読むうち、半世紀前に書かれた「よくできたお話」が、今も色あせない、息遣いをもった物語に様変わりしてしまう、その不思議な迫力はちょっと癖になりそう。この人はほかにも信仰を題材にした「黒い仔猫」って短編も書いていて、これが猫好きにはつらい内容なんだけど、やはり不思議な読後感は同じ。真摯であるだけではなく、底意地の悪いところも見え隠れするのが、この作家の魅力だったりするんだな。それだけに、逆に伝わってくるものは真実味がある。「誰でもない男の裁判」のラストで味わう感覚も、そんな感じなのかな。
この短編集、文章がやや古めかしくて、読むのは時間がかかるかもしれないけど、色々な人に読んでほしいと思う。これも晶文社から出てたのかな。いい出版社だよね。