言葉処 其の56「姓名の順も固有の文化」
2008-09-23
伊藤博文や徳川慶喜の名を「はくぶん」「けいき」と呼ぶのは俗称と知っていたのに、吉本隆明や水上勉が「たかあき」「つとむ」と読むと聞いて信じられなかった。「りゅうめい」「べん」でなければ変だよと。調べてみると確かにそうで、まさか菊池寛や安部公房もかと思ったが、本名は「ひろし」「きみふさ」ではあるものの、作家名は「かん」「こうぼう」だった。ほっ!
戊辰戦争で活躍した榎本武揚の俗称は「ぶよう」だが、明治八年の千島・樺太交換条約の署名には「Enomoto Takeaki」と記している。ここで着目したいのは読み方ではなく姓名の順番。西洋式に書けば「Takeaki Enomoto」だが、榎本は姓名の順にしている。むろん西洋通の榎本はこのことを知っていたが、表記の順序も日本固有の文化と考えて敢えて変えなかった。
ところが、明治も中頃になるとローマ字表記では名前を先に書くようになる。外遊した伊藤博文がたびたび姓と名を間違われ、面倒だからそう書くようになったのが始まりだが、脱亜入欧の時代はともかく、今もそう表記するのは舶来志向に過ぎる。その点、中国や韓国は骨があるとサッカー選手の背中を見て思っていたが、これもだいぶ前に名姓の順になってしまった。
終戦直後、志賀直哉は日本語を廃止してフランス語を公用語にしようと唱えた。そうなっていたら戦争に至らなかったかは分からないが、「みずかみ・つとむ」が「みなかみ・べん」と読まれることはなかっただろう。しかし、悪いのは言葉ではない。毒を飲んで死んだ人がいたら、それは毒が悪いのではなく、飲んだ人が悪いのと同じで、扱うほうに問題がある。(黒)



