言葉処 其の42「一字二訓の惑い」
大藪春彦の『汚れた英雄』は「けがれた英雄」かと思ったが、これは「よごれた英雄」だった。「けがれ」は内面的な汚れ、「よごれ」は物理的な汚れを指すことが多いからそう勘違いしたのだが、見えない汚れでも「よごれた関係」のような使い方もあり、また「けがれた英雄」では「穢れ=宗教上の不浄」のニュアンスも感じられるから、やはり「よごれた英雄」が適切なのだろう。
ただ、「よごれ役」や「よごれた金」などは、敢えてそう言っているというより、元々は単なる誤読だったのではないか。「穢(けが)れた」と書いた昔と違い、今は「汚れた」と書いて「けがれた」とも「よごれた」とも読むから、書いた当人は「けがれた」のつもりで記したのに、相手に「よごれた」と読まれてしまって、その誤読が一般に広まって定着していったのではないか。
「辛い(からい・つらい)」「潜る(もぐる・くぐる)」「難い(かたい・にくい)」「避ける(さける・よける)」「誘う(さそう・いざなう)」「焦らす(あせらす・じらす)」なども二訓あるが、「汚れる」の例と違い、後者は新聞などではかな書きされるからいい。しかし、「抱く(だく・いだく)」「怒る(おこる・いかる)」「行った(いった・おこなった)」はともに常用漢字だから困る。
だいたいは文脈で区別できるが、「怒る」は「おこる」が話し言葉的、「いかる」が書き言葉的といった程度の違いしかないから困る。文章語ならいいが、口語ではおかしいなんてややこしすぎる。最近の子は「おこった」と言わず「いかった」と言うことが多いが、これもこうした事情からか。それとも相手への冷めた感覚の表れか。思えば横山やすしの「おこるで」には情があった。(黒)



