言葉処 其の31「様々なる意匠」
2008-04-01
準優勝という言葉が頭にあったせいか、純喫茶と言われて、喫茶店に準じた居酒屋のようなものかと思っていたときがあった。似たような言葉に純文学があるが、こちらのほうは性描写などがない純な文学だと勘違いしていた。ところが、高校時代、デビューまもない村上龍は『限りなく透明に近いブルー』を読み、純文学とは商業性より芸術性に重きを置いた小説だと知るに至った。
純文学の対義語は大衆小説だが、今はエンターテインメントと言う。昭和36年に伊藤整は「『純』文学は存在し得るか」という評論を書いているが、ということは、この時代はまだ「存在し得た」ということだろう。その後、純文学と大衆小説のハイブリッドである中間小説の誕生をみるが、今この言葉はほとんど使われなくなっている。小説そのものが中間小説化したからではないか。
私見だが、純文学と大衆小説という二元論の時代は終わり、今はテーマという横軸にウェイトを置いた中間小説を純文学と呼び、ストーリーという縦軸を優先する中間小説をエンターテインメントと言うのではないかと思う。これら中間小説を「文学」というカテゴリーでくくり、そこからはみでたポルノ小説、ケータイ小説などの通俗小説との二項対立が現代文学の構図だと思うが如何。
平野謙は、横光利一、川端康成などの新感覚派、プロレタリア文学、自然主義などの既成文壇を三派鼎立と看破した。鼎立とは三つ巴ということだが、これに対して小林秀雄は「様々なる意匠に過ぎない」と一刀両断にしている。小林が生きていたら、ライトノベル、ジュニア小説、ジュブナイル、ヤングアダルトについても、「様々なる意匠」と言って切って捨てるのではないか。(黒)



