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社員ブログ

言葉処 其の27「ゾケサ的世界」

2008-03-04

「僕が泣く」のように「が」の後に述語がきて終わる文を現象文と言い、江戸時代後期に生まれた表現だが、「僕が涙」のように名詞がきて終わることはない。ただ、「である/です」を略して『恋人がサンタクロース』(松任谷由実)と言うことはできる。これと似ているが、浜田省吾の『君が人生の時』(Time of your life)の「が」は格助詞ではなく、「の」と同じ働きをする文語的な助詞だ。


唱歌『ふるさと』の「うさぎ追いし」を「うさぎ おいしい」、『赤とんぼ』の「(背)負われて見た」を「追われて見た」と勘違いしたりするのは、幼少期に文語調の歌詞を音だけで聞いたときに起こりやすい。逆に同僚のYさんは欧陽菲菲『雨の御堂筋』の「小糠雨 降る」を「来ぬか 雨降る」だと思っていたそうで、わざわざ文語に直しているところがおもしろい。ブレスの位置のせいか。


『仰げば尊し』の「思えばいととし」は「思えばいとおしい」ではなく、「いと疾し」(とても早い)。「今こそ別れめ」の「め」は「分かれ目」ではなく、意思を表す助動詞「む」の已然形。『蛍の光』(原曲はスコットランド民謡)の歌詞は凝っており、「過ぎ」と「杉」を掛けて「いつしか時もすぎの戸を」とし、「あけてぞ」は「(戸を)開ける」と「(夜が)明ける」を掛けているからややこしい。


文芸批評家の蓮見重彦は、少年時代、「あけてぞ今朝は」を「あけてゾケサは」だと思い、佐渡のような島の顔をした「ゾケサ」という植物めいた動物が、朝日に向かってぞろぞろと二手に別れて遠ざかってゆく光景を想像したという。このような勘違いをゾケサ的世界と言うが、ゾケサなる聴覚映像を生んだのは氏の想像力の賜物か、それとも膠着語である日本語の特性か。(黒)